合気道の稽古は段階的に深まる

合気道の稽古には、ちゃんと段階があるようです。

でも、そのことを教えてくれる人は意外と少ないのが現実です。

たいていは、一教や小手返しなどの技を覚えて、そのまま何年も形稽古を続けるだけです。

けれど、それだけでは本質的な上達にはつながらないのは自分の経験から学びました。

「形だけが上手くなって、実際には効かない技」の積み重ね。

今は合気道の稽古は、以下のように段階的に深まっていくという考えです。

  1. 技・型を覚える稽古(形)
  2. 身体操作を身につける稽古(体)
  3. 意識を使った稽古(気)
  4. 精神性・和合に至る稽古(心)

いきなり「精神性が大事だ」と言っても、技がかからなければ説得力がないし、身体が使えなければ、意識の操作もできません。

つまり、どれもバラバラでは成立せず、それぞれが積み重なっていくことで初めて技に生きてくるのだと。

段階を飛ばそうとすると、途中で必ず壁にぶつかります。

「なんとなくできているつもりだけど、技が効かない」「動きが軽くならない」「相手に入れない」

そう感じるとしたら、どこかの段階を飛ばしているか、十分に深めていないのかもしれません。

だからこそ、合気道の稽古は最初は形。そこから体、意識、心へと段階的に学び稽古する必要があるとか、偉そうなことを言ってみます。

順を追って積み上げていくことで、ようやく「合気」というものの正体が見えてくると感じています。

第1段階:技や型を学ぶ稽古

合気道を始めたばかりの頃は、まず技や型を覚えるところから入ります。

一教から五教などの抑え技、小手返し、四方投げ、入り身投げ、回転投げ、住み落とし、十字投げ、呼吸投げなどの投げ技。

いわゆる「名前のついた技」を、受けと取りで反復していく段階です。

ここでは、体の使い方や力加減よりも、動きの順番を覚えることが中心になります。

右手を持たれたらこう、肘をこう引いて、足をここに出して、相手をこう崩す。

まさに「技の形」を身につける稽古です。

もちろん、この段階は合気道の稽古に必要不可欠です。

なぜなら、形を知らなければ次に進めないし、技を通じて稽古のルールや受け身の取り方、安全な動き方も学んでいくからです。

ただ、問題もあります。

この「形を覚える稽古」だけを何年も繰り返していると、「形だけの稽古」になってしまうことです。

たとえば、技がかかるかどうかは関係なく、ただ順番通りに動いて投げて、受けはきれいに回って受け身を取る。

受け身がうまい人ほど、技が効いていなくても勝手に飛んでくれる。

すると取りは「自分の技が効いた」と勘違いしてしまう。

でも、実際には力も角度もタイミングも甘くて、全然かかっていない。

形だけを繰り返し、技の中身が抜けた稽古は、今の合気道の問題の一つだと思っています。

形を覚えたらそこで終わりではなく、次の段階があるのに、出来ない教えられない指導者があふれています。

これは会員数を増やし合気道を広めることに特化した方針に武道の魂を売った代償です。

結果として、出来ない人を量産する仕組みが出来上がりました。

実際には次の身体操作の稽古の段階があります。

第2段階:身体操作を体得する稽古

形をある程度覚えたら、次に必要なのは「身体の使い方」です。

この段階に入って初めて、技が効くようになってきます。

昨今の武術のyoutuberの達人の技ができるようになります。

ここでいう身体操作というのは、単に筋力を使うのではありません。

人には筋力の使い方が二つあります。

接点を使う力の使い方、接点を使わない力の使い方など言い方は色々あります。

半身、脱力、抜き、中心を取る、螺旋の動き、重心の移しかた、体軸の使い方など、目に見えない部分をどう動かすかという話です。

例えば、腕力で引っぱっても崩れなかった相手が、「抜き」を使うとスッと動くようになる。

力を入れずに体ごと動けば、こちらが何もしなくても相手が自然に崩れていく。

そういう「技の中身」がここで初めて見えてくるわけです。

形だけの稽古では気づけなかった「なんで技が効かないのか?」という疑問も、ここで解けるようになってきます。

たいていは、力の入れすぎだったり、相手を動かそうとして自分が止まっていたり、身体の流れが途切れていたり。

肉体的な衝突をひとつずつほどいていくのが、この段階の稽古です。

しかし、この身体操作の稽古に入るには、意識的な学びが必要になります。

ただの形稽古の中では、なかなか気づけません。

「なんか先生の技は効くけど、自分のは効かない」それはセンスや年数の問題ではなく、身体の使い方を習っていないからです。

大事なのは、技が見た目”ではなく、内部で起きているという事です。

この段階で初めて、合気道が「見た目ではわからない武道」だということが、体感として理解できます。

ここから先の段階へ進むためには、「意識」を使う必要があります。

つまり、立ち会った瞬間、構えた時点、間合いといった、触れ合う前での術が重要になります。

第3段階:意識を使った稽古へ進む

身体の使い方が分かってくると、次に気づくのが「意識の稽古」です。

浮き身、遠山の目付といった、意識も伴われる術を会得する段階です。

これは、接触したあとに力を伝える身体操作とは違って、接触する前から相手を捉えるための術です。

実際には意識使いを理解し会得している先生は非常に少なく、見当違いの自己解釈した内容を説明している事がほとんどです。

居着きと起りの関係

たとえば「居着き(いつき)」という現象があります。

これは、意識が止まり、体が動けなくなる状態のことです。

表面上は構えを取っていても、動き出しに一瞬の「詰まり」が出る。

これが「起り(おこり)」です。

つまり、居着くと必ず起りが出る。

起りとは「動こうとする意図が漏れる瞬間」であり、相手に気配として伝わってしまいます。

この一瞬を読まれたら、もう先手は取れない。

だから、意識の稽古ではまず「居着かないこと」。

そして相手の起りを感じ取り、その前に入る「入り身」が重要になってきます。

こうした術は、目には見えず、教えられないとまず気が付けません。

教えられ体感として稽古しないと、身につかない感覚の一つです。

入り身

入り身とは、ただ相手の横にずれて入る動作だと思っていた時期もありましたが、本当は相手の意識のスキに踏み込む動きです。

身体を動かす前、接触する前には、もうすでに勝負が決まっているようなことも起こりえます。

※入り身とは、入り身投げの事ではなく相手の間合いに衝突せずに入る、もしくは入られた時に、ぶつからずに処理する技術の事です。

感じ取り、こちらが一歩先に働きかける技術がこの段階です。

ただ、この意識の稽古に入る道場は本当に少ないと思います。

なぜかというと、こういう術は「目に見えない」からです。

教える側にも相当な理解と感覚が必要になります。

それに、「技の形」や「身体操作」だけで満足してしまう人には、この段階の必要性が伝わりにくい。

でも、ここを飛ばしてしまうと、どれだけ形が美しくても、身体が使えていても、最終的に先の先を取られたら終わりという武道として致命的な欠点が残ります。

意識が使えるようになると、逆に相手が動けなくなったり、打ってこられなくなったりします。

それは不思議な現象でも、魔法でもなくて、意識の使い方を稽古してきた人だけが自然にたどり着く技術があるのです。

ここまで来て、ようやく「合気とは?」という核心に触れられるようになる気がします。

そしてその先には、私にはまだわからない、武道の精神性や、和合の意味が見えてくるようになると、先生を見ていると思えてきます。

第4段階:精神性・和合に至る合気道

→ 最終的に技や勝ち負けではなく、人との調和、精神的な成熟へ

→ 和合とは逃げやきれいごとではなく、技術の果てにある

合気道にはよく「和合」という言葉が使われます。

でも、それをただ「争わない」「優しい武道」とだけ捉えるのは、浅いのかもしれません。

和合とは、「相手を受け入れる」とは、相手を受け入れ、崩し、制し、それでもなお相手と調和するという意味と考えています。

つまり、技術がなければ成り立たない。

逃げることでも、受け流すことでもない。

身体が動き、技がかかり、意識が通じるようになって、ようやく「相手と争わずに済む」余裕が生まれるのでしょう。

逆に言えば、そういう技術が伴っていなければ、「和合」とは単なる理想論や屁理屈で終わってしまう。

この段階に入ると、稽古は勝ち負けや段位や承認欲求とは無縁のところで、自分と相手、そして空間全体を調和させていく感じが先生を見ているとします。

稽古を続けていくと、「効かせる」こと自体にあまり執着がなくなってきて、でも、技はむしろ前より鋭くなっていて、力んでいないのに、相手が崩れたり。

意識が通じて、無駄な動きがすくなくなっていくなど。

それは、争いを超えた本当の意味での強さが、心と体に根づいてくるのかもしれません。

和合とは、最終的なゴールであると同時に、技術の果てにしか見えてこないもの。

それが、合気道の本当の道だと思っています。

まじめか?

師事している先生は、おやじギャグが多く、ずんぐりむっくりで、見た目は普通のおじいさんですが、初回の技を掛けられた時点で、度肝を抜かれました。