後ろ飛び受け身とはどんな受け身か
プロレス技のラリアットを受けた時のように、技を受けた瞬間にのけぞるように飛んで背中から落ちる受け身が流行りだしています。
後ろ飛び受け身というそうです。
そもそも、武道や合気道の知識があれば、本来後ろ飛び受け身という代物は存在しないと分かるはずですが、残念ながら知らない人が多いようです。
一言で終わらせるなら受け身とは、技から自分を守るための技術であり、見栄えを気にしたり、予定調和でとる、「受け身ごっこ」ではないという事ですが、解説させてください。
本来の投げ技は真下に落とすもの
本来、投げ技というのは体重をかけて頭から落とすのが基本です。
具体的には、後頭部から地面に叩きつけるように落とす。
場合によっては、投げると同時に関節を折る、もしくは折りながら投げる。
取り手と受け手が分離して、距離が空くような投げ方ではなく、その場で真下に落とすのが基本です。
これが、本来の投げ技です。
だから、「投げられた瞬間に、相手が大きく飛んでいく」ように相手を逃がす事は稽古でも本来ありません。
本来の技は、纏わせなど崩しで成り立つ
一部の古流や合気系武道では、相手を無理に倒すのではなく、自分の動きに引き込むように相手を自然と崩れさせる技があります。
纏わせるといいます。
そうやって、投げる側に吸い寄せられるように崩されていく技があります。
このときに、結果として「のけぞる様に飛ぶ」ように見える受け身になることもあります。
天地投げや入り身などで相手を纏わせるようにして崩す、いわゆる吸い込むように投げる技の流れの中で、受けきれない時にあの形の受け身になるのです。
でもそれは、技の結果としてそう投げられだけで、受け手がわざと狙って行う行動ではありません。
投げたら終わり?武道にそんな技はない
多くの古武術や武道の流派では、「投げたらそれで終わり」には絶対にならないということです。
現代では、四方投げや小手返し、墨落としといった技をかけた後、そのまま投げっぱなしで終わる稽古がよく見られます。
しかし、本来の形からすれば完全に間違いです。
本来は、技をかけて投げたあと、1教なり、2教なり、あるいは3教などの抑え技で、しっかりと抑え込みに移ります。
そして実際にはさらにその先があります。
たとえば決めた腕を折ります。
もっと古い時代であれば、抑え込みながら脇差しを使って相手を刺し、確実に致命傷を与えて終わらせるのが本来の武術です。
つまりなげっぱなしという事はないのです。
初心者の頃に教わった先生も技の終わりは常に抑え込んでいました。
時代錯誤もいいところの技の流れの話になりましたが、共通して言えるのは、受け身は予定調和でするものではないということです。
受け身が派手になる理由と誤解
受け身を取る側が、自ら負けに行く、技にかかりに行く稽古では
- 相手を崩す必要もない
- 纏わせる、吸い込むといった合気を用いた術も必要もない
- 受け手が空気を読んで倒れてくれる稽古は、武道としての価値はない
受け身は「最初から後ろに飛ぼう」とか、「自分で派手に回ろう」とか、そういう意図でやるものではなく、掛けての実力の結果で変わるものです。
合気道が本来持っていたはずの、相手を制する力、理合、そして実戦性は、この「受け身ごっこ」の稽古では決して養われません。
武道の稽古が劣化した歴史的背景
本来は合気道の指導者の側が、受けを纏わせる技や、引き込む技を会得して、受け身を取る側が後ろ飛び受け身のような態勢に成らざるを得なくするのが正しい在り方です。
指導者が上手な投げをすれば、弟子は受け身を取ることに必死で、わざと受け身を取るなどという余裕は生まれません。
少なくとも私が師事した先生の技がきつく、自分が怪我をしないようにするのが精いっぱい、大げさに受け身をとる余裕は生まれません。
こんな誤解や、プロレスラーのようは派手な受け身を練習する悪習は生まれないのです。
結局、合気道が劣化していくのは、本当に効く厳しい技を出来る指導者が非常に少なくなっているというのが本当の原因です。
私は怪我をさせずに、いかに受け身を取らせないように投げるのが、良い投げだと思っています。
もちろん怪我をさせたこともありません。
今の合気道は危ないからケガするから、きついからと排除された技の後に残る、痛くもかゆくもない甘い技を指導する指導者と、派手な受け身を取ることに目を向けている人ばかり。
受け身を派手に取るのが上手という風潮が広がって、受け身を取る側が勝手に演出してしまう。
その結果、技の意味も構造もズレた、おかしな受け身が当たり前のようになってしまいました。
つまり、「後ろ飛び受け身を取ること」を前提に投げる、そんな目的で投げ技をかける時点で、すでにおかしいのです。
なぜなら、受け身を取らせる前提の技とは、「これは受け身の練習ですよ」という打ち合わせがある世界、つまりやらせだからです。
それはまさに、プロレスで「ラリアット受けるから飛んでね」という合図があるようなものであり、技の理合ではなく、予定調和の演出です。
受け身を取りに行く側の感覚がずれてきている
- 想定された受け身、つまり打ち合わせ済みの受け身を取る必要はない
- 合気道は空気を読んで、決まった形に収める、プロレスではない
- 予定調和の中でやるものに、武術としての価値はない
- 合気道は八百長みたいなやり取りを稽古する武道ではい
受け身とは何かというと、昨今では「上手く、派手に見せる」ことが重視される風潮がありますが、これは完全に間違いです。
そもそも、頭から落とされるような場面だったり、危険な技を受けたときに、いかに怪我をしないように取るのが受け身です。
つまり、応じられること、それが受け身です。
相手の技を受け切って身を守り、危険な技から安全に抜けるために、受け身が上手になるのが正解です。
本来の目的なのに、今は危険を排除した技に甘えて、見栄えよく派手に受け身を取るのは不正解です。
武道の稽古が劣化した歴史的背景
合気道に限らず、あらゆる武道は、もともと命のやり取りの中で磨かれてきた術です。
戦国時代、まさに「やるかやられるか」「生きるか死ぬか」の時代に、武術は命を守るために磨かれ、合理性と実戦性を極限まで高められていきました。
ところが、
- 江戸時代以降、社会は平和になり、
- 実戦の必要はなくなり
- 各流派が独自の「型」を洗練しはじめ
いつしか「見栄えのいいもの」が優先される時代に入っていきます。
合気道も例外ではありません。
演武で映えるような派手な技、派手な受け身も、技術の高さとして錯覚されるようになってしまったのです。
でも、それは本質ではありません。
本当に大事なのは精神性を除けば、実践できる技と、身を守れる受け身です。
武道は守るべき“普遍の知”
武道とは本来、クラシック音楽のように、完成されたものを「守り、伝える」ものです。
つまり武道は時代とともに変えてはいけない普遍的な知である。
- 本質が分からない者たちが、
- チープな演出に走り
- 形だけの技を繰り返し
- ごまかしや空気読みで「稽古をしたつもり」になる
そんなことを続けていれば、武道はどんどん劣化していく。
だからこそ、本質を失わないことが必須なのではということです。
プロレスの話が出ましたが、ノアだけはガチ。