現代の柔道や格闘技と、昔の武道・柔道・格闘技の違いを見ていく中で、ひとつはっきりと分かったことがあります。

それは、現代では「いかに相手を崩すか」が中心の考え方になっているのに対し、昔の武道では「いかに自分が安定するか」が重視されていた、という点です。

合気道の稽古が進み、技術が深まるにつれて実感するのは、自分が本当に安定した状態に入ると、相手は意図せず不安定になっていくという事実です。

こちらが相手を崩そうとしなくても、相手のほうが勝手に崩れていく状態が生まれます。

現代の柔道では、相手のバランスを直接崩して操作しようとする考え方や、自分の動きを操作することで結果的に相手へ影響を与えようとする考え方とは、全く逆の理合いが起こるのです。

合気のような技術が身についてくると、そもそも相手の重心を崩そうという発想自体がなくなっていきます。

自分が安定した状態を作るだけで、相手が自然と崩れていくという現象が起こるからです。

そして、相手は相撲でいうところの「死に体」となります。

もしかしたら空手でいう「相手を据え物にして打つ」とは、このことを指すのかもしれません。

つまり、相手はすでに技がかかる状態になっており、そこに技を掛けるだけで決まるという段階に入っているのです。

これこそが、昔の武道で言われてきた体さばきや対術の本質ではないかと思います。

相手をどうにかしようとするのではなく、自分を磨き、自分を有利な状態に保ち続けた結果として、相手が対称的に不利になる。

そうして勝ちに近づき、負けが遠のいていく。

その状態そのものが、日本の本来の武道であり、現代の格闘技や柔道との大きな違いなのだと感じています。

この考え方は、武道の精神として語られる「相手と戦わない」「気持ちを丸くする」「争わない」といった言葉にも繋がっていくのではないでしょうか。

ただ喧嘩をしないとか、仲良くするという意味ではありません。

武道の世界では勝ち負けがはっきりと存在します。

その中で、争わずに勝つこと、すでに自分が勝ち続ける状態にあることが重視されているのだと思います。

そう考えると、「武」という文字が「矛を収める」と解釈されることにも、十分な意味があるように感じられます。

無駄な衝突や争いが起こらない状態に至っている、ということです。

その象徴的な例として、今も映像に残る空気投げで有名な三船久蔵十段の姿が挙げられます。

直立不動に近い安定した姿勢で、まるでダンスをするかのように進み、結果として相手が自ら崩れて技がかかっていく。

そこには、いわゆる「重力豪」とも言える世界がはっきりと現れています。

もちろん基礎体力を作ることは大切です。しかし、それ以上に重要なのは技を磨くことだと感じます。

自分を安定させ続ける技術を高めることで、争うことなく勝ちに至る。その境地こそが、武道が本来目指してきたものなのではないでしょうか。