合気道は強いのか?それとも弱いのか?

その問いに対して、どちらの意見もある」というのが実情です。

そこで今回は、合気道が「強い」とされる理由と、「弱い」とされる理由の両方を、きちんと整理して書いていこうと思います。

そもそも合気道というのは、植芝盛平の時代、そしてその直弟子や孫弟子の時代までは、まったく質の違う合気道が行われていました。

この時代までは、まだ“本物の合気道”が存在していたと言えます。

しかしそれ以降に伝えられてきた合気道は、技の“形”だけが残り、中身や本質が失われてしまった。

つまり、昔の合気道と今の合気道は、もはや別物です。

昔の合気道には、実際に強さがありました。

けれど今の合気道は、武術としての要素を失い、形骸化してしまったのです。

合気道が「弱い」と言われるようになったのは、まさにこの質の変化が原因です。

だからこそ、結論はこうなります。

「昔の合気道は強かった。今の合気道は弱くなった」

なぜ現代の合気道は弱くなったのか

まず、「弱い」と言われる理由から

では、なぜ現代の合気道は「弱い」と言われるのか理由をお話しします。

技術の喪失と形骸化

今の合気道は、体軸・浮き身・逸気・脱力・合気といった、合気道を成り立たせていた重要な術が失われ、ただの形稽古になってしまいました。

つまり、「合気道の型だけが残り、ノウハウやコツの部分が消えてしまった」のです。

本来の合気道には、遠山の眼付、浮き身、入り身など、体や意識の武術的な使い方がありました。

それらを通じて、相手を無力化したり、信じられないような強い力を出すことができたのです。

しかし今では、そうした“本物”の技術や感覚が、ほとんど途絶えてしまっています。

だから「合気道が弱い」のではなく、「現代の合気道が弱くなった」というのが正しい見方です。

稽古の質の低下と錯覚

今の合気道では、昔のような固い稽古といわれる、本気で掴みかかり、本気で持ち、「その状況でどう技をかけるか」を追求する稽古は、ほとんど行われていません。

今の合気道は、相手を優しく持ち、技がかけやすいように受けが極力協力する、限定条件で技を繰り返すだけの稽古になっています。

これが、現代の合気道の主流の稽古風景です。

でも、こんな稽古で強くなれますか?

これでは、強くなるはずがありません。

稽古の質はどんどん下がり、身体も精神もまったく鍛えられない。

それにもかかわらず、そうした稽古を続けている人たちは、「これが合気道なんだ」と錯覚しています。

さらに厄介なのは、「いつかはこの甘い稽古でも強くなれるはずだ」という、勘違いのまま稽古を続けてしまっていることです。

だから、今の合気道は弱いのが当たり前、強いわけがないのです。

かつての合気道はなぜ強かったのか

合気道は、植芝盛平の直弟子の教えてもらった弟子、つまり孫弟子というのでしょうか、その時代の弟子と、そのあとの弟子では実力が全く異なります。

まさに段違いという言葉が当てはまります。

稽古の厳しさと精神性

当時は、他の武道経験がなければ道場に入れないという時期もあったそうです。

怪我をするのは当たり前で、稽古後には疲れて立っていられないこともあるほど。

当て身では、本当に打たれる可能性があるため、顔を守ることも必要でした。

当て身をもろに食らい、口から血が出ることも珍しくなかったといいます。

その時代の道場には、柔道や剣道の経験者が多く、さらには戦争から帰還してきた人たちも参加していました。

そうした人たちは、稽古に対する精神そのものが、今とはまったく違っていたそうです。

「一瞬スイッチが入ると、本当に厳しい技になる」とも聞きました。

稽古の質も、精神のあり方も、まるで違っていたのです。

技の質についても、かつては本物の技があり、武術的な体の使い方ができる人たちが沢山いたそうです。

筋力や力、スピード、タイミングといった要素を自在に扱いながら、技術として「柔よく剛を制す」世界を体現できる人が確かに存在していたのです。

実力で証明された技の存在

かつての本物の時代の合気道家たちは、実際に海外へ行き、喧嘩や実戦の中で、自分の腕一本で合気道の力を証明して入門者を集めたそうです。

だからこそ、「弱いわけがない」と言えるのです。

そうした出来事は、多少誇張されて語られている部分もあるかもしれません。

けれども、もし本当に弱かったのなら、そんな話が残ることはありません。

それに、ただ前評判の話を聞いただけで「すごいから習いたい」となるような、そんなわけのわからないものを簡単に信じる時代でもないし海外の武道経験者なんていません。

当時は、実力でしか評価されない時代でした。

「腕っぷちがすべて」と言われるような、そういう時代です。

その中で合気道が広まり、多武道の経験者たちが本気で学ぼうとしていたこと自体が、合気道の強さや技が本物だった証明でもあります。

今でも、合気道の達人の動画を見ると、信じられないような不思議な技を使っている場面がありますが、当時は、ああいった技を使える人がもっと身近に沢山いたということです。

実際、私自身も格闘技を経験してきた中で、ある程度限定された条件下とはいえ、本気でかかっていった際に、触れた瞬間に崩される、身動きが取れなくなる、地べたに潰される体験をしてきました。

だからこそ、「これはただの型じゃない」「本当に意味がある」と感じて、今でも学び続けているのです。

本物の技が失われるまでの流れ

そういう技を直接受けた弟子たちは、「自分もああなれるかもしれない」と思い、その先生の後を必死で追いかけます。

けれども結局、誰もがその技を体現できるわけではない。

そうした技は、簡単に再現できるようなものではないのです。

すると、どうなるか。

合気を使いこなしたり、柔よく剛を制す不思議な領域に到達できない人たちが、指導者として教える側に回るようになります。

結果として、ただの型を覚えただけの形骸化した合気道を覚える人が増えてしまうとどうなるかというと。

かつて本物の技を受けたことがあるはずの弟子は、「あの先生はこうだった」と、できなかった自分の解釈をもとに語り、何十年師事した師匠の凄さを否定してしまうことすらある。

かつての先生の方針、理論は全く教えず、付け焼刃の自分のやり方を堂々と教えるのです。

本物の技を実際に体験したことがない後進の人たちは、「これが合気道なのだ」と信じてそのまま学び、技の本質を知らないまま、弱い合気道を受け継いでいくことになるのです。

こうして本物の合気道は少しずつ失われ、今は弱い合気道だけが残ってしまうのです。

私はその様を実際に見て、経験してきています。

今の合気道に残された現実

学ぶ価値のない合気道が、世の中にたくさん存在している。

いわゆる技や型の教室はあふれているけれど、本当に武術として通用するような、体の使い方や意識の扱い方、技のコツやノウハウを教られる先生や教室は、ほとんど見つかりません。

それが今の合気道の現状であり、「弱い合気道」ばかりが広まってしまった理由でもあるのです。

ダメな合気道の道場に行くと、手が固い柔らかくしろなど、とにかく自分が気持ちよく技をやるために、弟子に橋梁的な受け身を取らせる指導者などを見ると悶々とします。

良い合気道化を見つけるにはyoutubeで達人と称されるような技を披露している、合気道家に師事するか、もしくはいろいろな道場に自分から通い、試行錯誤の末に会得するしかありません。

結局、合気道は強いのか弱いのか?

結局、「合気道は強いのか?弱いのか?」という問いに対しての答えはこうです。

武術的な要素を持った合気道は本当に強い。

そういった要素がない合気道は、めちゃくちゃ弱い。

たとえば、柔よく剛を制すといった「武術的な力の質」を体現できるような合気道であれば、現代の武道で主流となっているスピードや反応、技の切れのようなものに対しても、まったく違う次元で勝負できるのです。

そもそも合気道というのは、合気道ができる何百年も前に体の小さな人が大きな相手に勝つために、知恵と工夫でつくられた日本の剣術などが元にある武術です。

昔の武術家たちは、皆きちんと身体も鍛えていました。

そのうえで、さらに高度な技術を習得していたわけです。

では、どうなるか?

同じように体を鍛えている者同士であっても、技術的に有利なテクニックを持っている方が、当然勝ちます。

現代の打撃の格闘技で言えば、ただひたすらパンチや蹴りの練習をサンドバック相手に練習している人よりも、カウンター、フェイント、交差法といった引き出しの多い人のほうが圧倒的に有利なのと同じです。

つまり──合気道は、基本的に「強い武道」です。

昔ながらのノウハウや技術をしっかり受け継いでいる人の合気道は強い。

でも、「弱い合気道」を習った人、あるいは「武術的な要素のない合気道」を教えている人たちは、当然弱い。

そういう話です。

それでも証明できない悲しい現実

達人がいない、育たない

ただ、ひとつ残念なのは、昔の本物の合気道を今の時代に体現できる人が、ほとんどいないという現実です。

たとえ現代にいたとしても、実践的なスパーリングや動きの中でその技を再現できる達人、つまり、かつての塩田剛三先生のような実力の人はいない。

だから、誰もその技の本当の強さを証明できないんです。

もし仮に、「俺がやってやる」と実際に技を使って証明できるような人が現れれば、合気道が強いということをはっきり示すことはできるはずです。

しかし現実には、それができる人が育たない。

その大きな理由の一つは、合気道には乱取りやスパーリングといった実戦的な稽古法が存在しないことにあります。

そうした稽古環境がないために、技を実戦レベルにまで高める機会がなく、結局のところ、「相手が抵抗しない」「協力してくれる」という限定的な条件下でしか技が使えないまま、成長が止まってしまうのです。

体得する頃には試合に出られない

さらに言えば、そういった技を体現できるようになるのは、だいたい50代〜60代になってからが多い。

技は冴えていても、体力的なピークは過ぎてしまっていて、競技に出ることは難しい。

「合気道は争いをしないから試合に出ない」とよく言われますが、実際には「出られない」のが本当のところなんです。

もし本当に強いのであれば、試合に出て証明すればいい。

でも、それができない。

そこにあるのは、非常に厳しく悲しい現実です。

おまけ:実戦稽古はあるけれど…

小さい団体は乱取りやスパーリングのような実戦形式の稽古や試合はあります。

しかし合気道というか武道的な体使い、意識などの術が使えない人たちが、ガチャガチャやりあってるだけなのです。

つまり合気道や武道の理合いが成立してないから、厳密には合気道ではない。

ぐぬぬ、、、っきぃぃぃ!

とにかく本物の合気道は強いんです!!!(反論は受け付けません)

やめて!筆者のライフはもうゼロよ!

以上です。